岩内町移住とは全く関係ない記事です。なので岩内町について調べている人は全く読む必要もない記事ですので閉じてください^^;最近はたまに気づいたことを記録しておくために個人的日記記事を書くことにしています笑

先日、岩内町移住前からこのブログを読んでくださっていた移住者の方とお話をしました。

その時にこのブログの感想を伺う事ができたのです。結果からいうと「すごく相手のことを考えて書いていると思ったけど、ちょっと甘いんじゃないかなと思う点もありました」という感想でした。

どういう点がそうなのかまで深く尋ねはしなかったのですが、思い返せば私は昔からずっと「甘い」と言われ続ける人生を送っているんです。

小学生の頃の記憶

東京ディズニーランドにて

現在思い出せる小学生の頃の記憶をあげてみます。

(1)同級生たちと同じ感想を思い浮かばないことにコンプレックスを感じていた。

(2)近所の億ションといわれるような高級マンションに住んでいる子供たちが「優秀」と言われていることに、子供ながらに「金持ちだから優秀だなんて決まってないだろ」と嫉妬していた。

(3)担任の先生が「不言実行」という言葉を掲げていた。

(4)いい学校(偏差値高い学校)入って、いい会社(大企業)に入ればいい人生が送れる(幸せ)と決められていた。それに反発していた。

(5)通知表に、食事のマナーが悪い、教室の後ろでプロレスごっこをしている、女子を泣かす、と書かれていた。

(6)人に会うことが苦手で家にお客さんが来ると押入れに逃げ込んでいた。

(7)入院するほど喘息で苦しんでいた。こんなに苦しむなら死んだほうがましだと思っていた。

(8)グリンピースが嫌いだったり、野菜が嫌いだったりして、給食時間が終わっても教室に残されて食べさせられていた。

思い出せるのは大体こういったもの。(3)と(5)については1、2年生のときです。

ちなみに「女子を泣かす」なんて書かれていましたが、1年生の時のバレンタインデーにはクラスの女子が17人前後だったのにもかかわらず、10人前後の子がチョコレートをくれたんですよ。自宅で開いた誕生日会にはクラスの女子の半分くらいが来てくれました。恐らく、いや間違いなく人生で一番モテていた時期です笑

(勝手な妄想で記憶を書き換えてるだけかもしれませんが>_<)

そしてこの話にはオチがあって、翌年のバレンタインデーには誰からもチョコレートもらえませんでした。ホワイトデーでお返ししなかったからかな(>_<)通知表の通り泣かしてたのかな(>_<)

いずれにしてもなんてひどい男だったんだ(^^;

(1)については、「他の人と同じことを考えられない」ことに、「自分はなんて能力がない人間なんだ」と思っていたんです。

(4)については、私と同じ世代の人は当時のこの風潮を思い出せるのでは?

当時のことを鮮明に覚えているわけではありませんが、子供ながらに「他人に決められる人生はつまらない」と反発していた気がします。

中学生の頃の記憶

(1)いい学校入って、いい会社に入ればいい人生が送れる。中学はまさにこれを言われた時代。

(2)2年生の頃に3科目、5科目、9科目で学年1位を取った。

(3)内申点を下げられることに怯える同級生が多かったので自分が同級生の代わりに先生に意見してあげようと思っていた。

(4)たしか3年間学級委員。学級会で意見をまとめられず、自分には向かないと思っていた。

(5)オリンピックの影響で有言実行という言葉が流行った。

(6)3年生の時テレビゲームばかりして勉強を疎かにした。

(7)塾の「夏の特訓」といわれる期間に、勉強しすぎて眠っている間に夢の中で数学の問題を解くという不思議な体験をした。

(8)第一、第二志望校は不合格。それなりに偏差値の高い都内の大学附属校は合格したけれど、試験問題が簡単すぎたこと、その年共学になったこと、エスカレーター式が嫌いだったことから辞退。補欠合格した千葉県の中高一貫の私立男子校に入学。

(9)好きな言葉は鶏口牛後

自分以外の他の人が読んだらツッコミどころ満載でしょうね。と書いてみて思います(^^;

(2)について、1位は取りましたがこれは小学生時代の(2)を証明するためという、ちっちゃな理由から頑張ってみただけです。将来の目標に向かってでもなく、勉強が好きだったからでもなかった。でも結局のところ、小学生の時に成績優秀だった人たちは私立中学に進学しているので大した証明にはなりもせず、1位を取ったら興味も薄れました。

さらに(1)に反発していたはずなのに、その方向に染まっていく自分や周りの環境が嫌になってきました。

そして3年生でのゲーム生活へと続く。小学生の時からゲーム好きだったので、受験前にまたゲームに目覚めてしまったという感じです。

ドラクエやFFは私の性格に大きな影響を与えているとは思いますが、全く後悔はありません。むしろ感謝。

(3)について、当時公立高校は内申点を重視、私立高校は試験結果重視で内申点は見ていないといわれていました。

だから、「実力で勝負すべきだ」と考えていた私は都立校には全く興味なし。私立高校に入ることしか考えていませんでした。私立高校に内申点は関係ない。そこで(3)の「私が代わりに意見しよう」につながるわけです。

別に成績以外を評価に加えることを嫌ったわけではありません。特定の教師の恣意的意見が人の評価に影響を与えることに不信感を持っていたんです。

都外の私立高校を選ぶことで学費の面で家族に大変迷惑をかけるのですが、そのあたり私は考えが甘くて、甘やかされて育っています。

(5)について。私は今でも不言実行という言葉は好きです。でも社会人になって外資系の企業に入ってからは有言実行の大事さも感じました。コロナ禍で見えない環境で仕事をする人が増えたら尚更重要になると思います。

自分で「こういう目的のためにこういうプロセスでやる」と宣言もしていないのに何かの結果が出たところで、それは何かの偶然であって、本人の力ではないという判断がされるでしょう。プロセスは(リモートワークでは特に)誰にも見えないので、事前に自分の考えるプロセスをわかりやすく示してあげることで、出た結果が自分の力によるものだということを証明するしかありません。

(8)について。女性嫌いで共学に行かなかったように感じるかもしれませんが違いますよ笑

学校案内パンフレットに、共学になって女子と一緒に授業を受ける楽しさばかり書いてあったんです。プールの授業も一緒ですとか。いやいや、学校の宣伝がそれか?(^^;って思ってしまったんですよね。それでも他にどこも合格していなければ入学していたでしょう。全てを比較して他の高校を選んだだけです。

振り返ってみると中途半端さがいつも私らしいんですが、あらためてちっちゃい考えの人間だなって反省します。

高校生の頃の記憶

(1)何もやる気が起きず成績が悪かった。

(2)敵わないと思う同級生がいた。

(3)志望校に落ちて浪人して志望校が変わった。

(4)人に会うのが苦手なのに、中学と高校で生徒会会計立候補演説をして、とても緊張し楽しくもあった。

(5)バブル期。これからの時代に必要だと言って親が40万円前後するX68000というPCをプレゼントしてくれた。(もしかすると中学3年の頃)

今、高校名+偏差値でネット検索してみたら、私の通った高校の現在の偏差値は75と出てきました。都道府県による実際の学力との違いはあると思いますが、私がかつて不合格になった高校よりも高い。私以外の人たちが頑張って評価を上げたんですね。

(1)について。もともと目的もなく、勉強が好きでもなかったのに、ただ流されるままに高校に入ってしまったんです。だから入学したら何もやる気が起きない。中学生の(2)ですぐに飽きてしまったのと同じような感じです。若くして燃え尽きたか?

いい学校入っていい会社入っていい人生を、なんて誰かが考えたような幸せには全く興味なかったのでなおさらです。

そんな感じだからもちろん成績も悪い。学年の下位の成績でした。

当時、個人面談から帰ってきた親にこっ酷く叱られました笑

でもすぐに反発してしまうのが私らしいところ…。(ちっちゃいヤツ…)

「人間には能力の差なんてほとんどない」というのが私の考えなので、勉強すれば誰だってそれなりに成績なんて出せるんだよ!と思って、勉強してみました。

そして3年生になったばかりくらいの時の成績は…、

学年に600人弱くらい生徒がいる中で60、70番代くらいだったでしょうか。ピーク時は50番代くらいでそれなりに成績が上がりました。

でもその時に考えたことがありました。

同級生の中には河合塾の全国模試で1位やトップ10に入ってくるような人間がいる。

彼らの中には、スポーツ万能、性格もいい、ルックスもいいという人間もいたんです。

(ちっちゃい)性格もルックスもどうにもならないけど、せめて成績だけは抜かしたいと思ったんですが…。(どっちにしろ考える事がちっちゃい笑)

さすがに残りの高校生活中に成績で彼らを追い越すのは難しいなと感じてしまったんです。それが(2)。

受験前、相手も努力している中でそれをさらに追い越すのは普通のことではありません。人間の能力の差なんてほとんどありませんから。差がつく前に追いついておくのが大事。

ところで親が2回目の個人面談から帰ってきた時に言いました。「〇〇大学(日本全国誰でも知ってるような大学です)なら今の成績でも指定校推薦でいけるし、ほかに誰も希望者いなくて余ってるから使ったらどうだって先生言ってたぞ。」

実は私は高校受験でこの大学の附属校を不合格になっていたんです。高校受験当時、願書に家族の勤める企業名や役職や年収を書かされるなどあって、親も私もあまりいいイメージを持っていませんでした。

加えて私の通う高校は当時、よっぽど思い入れのある大学がある人や絶対浪人できないという人以外は、私大の雄や王者といわれる大学しか志望校としていなくて、落ちたら浪人するのが結構当たり前。

あえて指定校推薦で個人的にイメージ悪い大学に行こうなんて考えもしませんでした。もちろん今でも後悔はありません。

でもその結果、

雄も王者も落ちました。・°°・(>_<)・°°・。

高校の実績としては雄も王者も100人前後の合格者を出してたはずですけど私は落ちました笑

受験動機が不純なので当然といえば当然ですが。

そして浪人生活。

この頃は人生で一番嫌な時期だったのかUFOにさらわれて記憶を消されたのかと思うくらいほとんど記憶がないのですが、本を読んだり人生について考えたりした時期だったと思います。

そもそも何の目的もなく受験しているだけなのに行く意味があるのか?

志望校のネームバリューはあるけど、それって過去の人の結果であって自分ではないよね?

どうせ入っても勉強なんてしないでしょ?

↑こんなことを考えました。

考えた結果、何をしていいかわからないけど、とりあえず大学は行こう。という結論になりました。

でも普通の大学に行ったら結局4年間何もせずに過ごしてしまうだろう。ギリギリまで追い込まれないと何もしない性格だから、常に追い込まれていた方がいい。

そんなことを考えて少人数教育と優秀講師が多いこと、簡単に卒業できないこと(笑)を売りにして開設された大学の法学部法律学科を受験します。

入学時4年生がいなかったくらい新しい法学部です。

合格はしたのですが、これには家族が大激怒。たぶんこの頃から私は親兄弟との仲が悪いんです笑

そして友人達からも、は?何のために浪人したの?という感じの扱い。現役時代一緒に登下校していた友人の多くが、私大の雄に行きました。王者に行った友人もいたし、日本のトップに行った友人もいた。少なくともみんなそこに匹敵するような大学にしか行ってません。

だから友人たちはみんな私に声をかけづらかったんだろうと思います。

でも私は今でもあまり気にしていません。上に書いた通り、

いい学校入っていい会社入っていい人生、なんてことには全く関心がなかったばかりか逆にそんな誰かが決めた訳のわからない常識にとらわれたくないと思っていました。

そして中学で覚えた好きな言葉は「鶏口牛後」

大きな集団の下っ端でいるよりも小さな集団のトップになれというような意味だと理解しています。

負け惜しみもあったのかもしれませんが、当時言っていましたよ。「大学の歴史は与えられるものじゃなくて自分が作るものだ」って。なんかどこかで聞いたセリフだな笑。

私は自分のことをある時期までネガティブだと思っていたのですが、こういうところを振り返るととてもポジティブな人間だなと感じます。

ちなみに一流大学に行った私の友人達、先日もコロナ禍では東京に来れないのか?と連絡をくれました。

彼らは一流大学には行ったけれど、いい会社入っていい人生なんてことはあまり気にしていないのでは?自分らしく生きている大切な友人達です。

(5)についても少し触れておきます。この頃は日本がバブル景気の時代。当時最高のゲーミングパソコン(笑)を親から買ってもらいました。実際ゲームばかりしていたのですが、私はこれまでPCスキルで困ったことがありません。それよりもPCスキルを活かして成績を上げ稼げることの方が多かった。この時PCを買ってもらったことが私の人生を大きく変えたと言っても過言ではないでしょう。

大学生の頃の記憶

(1)2年生までは首席だったらしい。

(2)大統領やノーベル賞受賞者を輩出しているアメリカの某有名大学のサマースクール派遣生に立候補して落とされた。

(3)法律は人を縛るためにあるのではなく、人を守る為にあるということを学んだ。

(4)自己責任の原則と〇〇一神教を学んだ。

(5)自作パソコンを組み立てていた。

(6)個人で運営していたホームページの年間アクセス数は4000。

大学名+学部+偏差値でネット検索をしてみると、42.5。うーん。私の頑張り不足もあるし評価が上がってないようですね。これまでのところは有言不実行ですかね?まあ、大学の価値はそれだけではないし、たしか卒業生が早々に司法試験合格してたので偏差値なんてあまり関係ありません。(今は法科大学院もありますが、以前は司法試験合格者を出せない大学もたくさんあったのです。合格者がいるだけですごいこと。)

(1)について。私は2年生終わるまでは首席だったらしいです。全ての講義でA評価だったので同じようにオールAの学生が複数いたのかもしれませんが。

(2)について。大学が全額負担でアメリカの某有名大学のサマースクールに3年生を一人だけ派遣する制度がありました。

私は気のちっちゃい人間だったのでそういうことは苦手だったんですが、これまでの自分を変えたくて申し込んでみました。

(1)に書いた通り面接試験当時首席だったので普通に考えれば私が選ばれていたのでしょう。しかし、事前に全然情報収集をせず、準備をしていなかった私は英語の面接試験がチンプンカンプン。しかも試験担当教授には「君は成績がいいけど、好きな講義だけ選り好みしているだけだろ。甘いんじゃないのか?そんなことでは単位不足で卒業できないかもしれないぞ。」と散々な言われようで落とされました(^^;

今思うとこの時から英語を嫌いになったのかもしれません笑

どうせなら、「そうですね。選り好みしてるからあなたの講義は受けていないし、これからも受ける気ありません」って言い返してやれば良かったですかね笑

そしてこのあと3年と4年の時には、面接時の教授のコメントへの反発心から1年間で取得できる上限の単位数を全て受講しました。

そしてその結果、はっきりとは覚えていませんが4つか5つかの講義がB評価。卒業の時には男性としては1位だったようですが、首席の座から転落していました。

この、感情的になってしまって完璧を目指せないところが一貫して私らしいところです笑

こういうところが甘いんです。好きですが笑

(4)について。某政治大学校の校長をしていたことがあり、現在は弁護士としても活動していて、毎年お手紙をくださる私の恩師の口癖でした。

それを私が勝手に解釈しています。

難しい法律的な解釈は抜きにして、自分でやったことの責任は自分で取れということ。他の人のせいにするなということです。

〇〇一神教というのは別に変な宗教ではありません。信じるのは己の力のみ、自分自身を磨けという考え。私であれば渡邉一神教ということになります笑

私は他人に何も期待していません。みんな自分のことで精一杯なはずです。それなのに他人に何かしてくれというのは失礼な話。それでもやってくれた方には大感謝しかありませんが、何もしてくれなかったからって文句を言うようなことではありません。

何もしてくれないのが当たり前なのであって、他人が何かしてくれるなんて期待していません。自分だけでやるしかありません。

先日岩内町内に住むオーナーさんが同じようなことを言っていたので、私はうなづきながら聞いていましたよ。

小学生〜大学生のまとめ

ここまでが社会人になる前までの話です。

私のことを感情のないサイボーグのような言い方をする人もいますが、事実はその逆。シンプルに言ってしまえば、感情的になることが災いして数々の回り道をしてきた人間です。

ちっちゃいことにこだわって大筋を見誤ることも度々。結局甘やかされて育った甘い考えの人間という根本がそうさせるのでしょう。

それでも法学部出身のためか、「泣いて馬謖を斬る」ということも普通に考えますよ。三国志に出てくる言葉なのでわからない人は調べてみてくださいね。

孫氏の兵法に、敵を知り己を知れば百戦して危うからずというのがありますが、自分がどういう人間なのか、過去を振り返って知っておくのも役立ちそうだと今回書いていて思いました。

社会人になってからの記憶

とても長くなってしまいましたが、社会人になってからの記憶を年代ごとに記録してみます。

20代の記憶

(1)人のためになる仕事、世の中の人を驚かすような仕事、信頼関係を作って物を売るショップの仕事などがしたいと漠然と思っていた。

(2)仕事に対する甘さを顧客から厳しく叱られた。

(3)国家機関、公共機関、民間中小企業と大企業、など様々な顧客と仕事をできた。

(4)PCスキルを活かして新しい分野の仕事を受注できた。

(5)給料は低かったけど仕事の満足度はかなり高かった。それでも正義感の強さから転職を決めた。

(6)絶対に嫌だと思っていた外資系の会社に転職をした。

(7)飛行機に乗ったことがなかったのに、転職後は毎週飛行機に乗った。

(8)平日は毎日出張先でホテル暮らし。

初めて就職した会社は従業員100人前後の会社です。辞める頃には半分くらいになっていたと思います。今は廃業しました。

(1)について。あまり綺麗ではない商品をちゃんとチェックもせずに納品してしまった時のことです。おたくはこんな仕事が無くなっても大したことないだろうけど、うちはこの仕事がなくなったら食べていけないかもしれないんだよ!こんなの納品されたら困るんだよ!!とかなり長い時間お叱りを受けました。

仕事というものを甘く考えていたなと思ったのはこの時でした。

(3)(4)について。それまでの印刷という仕事の枠を飛び越えて、営業として市役所からホームページ制作を受注したり、システム開発を受注したり、学校案内パンフレットを取材から請け負ったり、CD-ROM制作をしたりと、会社初となるようなことをなんでもやっていた時代です。とても楽しかった。この時の顧客の方々からは本当にたくさんの事を教えて頂き、社会人として仕事をしていく上での基礎を学びました。

(6)について。私は日本人なら日本の会社で働け!と子供の頃からずっと考えていました。

ところがこの時代はどうでしょう。バブルが崩壊して日本企業の終身雇用は無くなっていきました。

それまで一生懸命会社に尽くしても、ちょっと会社が傾いたら簡単に切り捨てられるんですよ?

そんな会社に尽くしたって仕方ありません。恐らくそういうことが言われ始めた時代、そういうことに気付き始めた時代だったと思います。

いい学校入っていい会社入っていい人生、そんな常識も崩壊ですね。

年功序列、終身雇用がなくなったらどうなると思いますか?

もらった分の仕事をするだけです。それ以上でもそれ以下でもない。

結局、年齢や経験に関係なく結果に対して正当な対価を払ってくれるのが外資系の企業でした。

外資系の会社に入ったことで気付いたこともあります。

それは日本の企業がユーザーのためではなくて、仕事を円滑に進めるために経費をつかう傾向が強いこと。例えば交際費などがそうです。考え方の違いなので良いも悪いもありませんがそういうことです。

そしてもうひとつ、私にとってこれが一番重要だったことかもしれません。

それは「他人と違うということは誇っていいことなんだ」ということ。

私は子供の頃から他人と同じ意見を考えつかないことがコンプレックスでした。でもこの会社ではそう思う必要はなかった。横並びの考えである必要はない。個性的な考えを尊重してくれる風土がありました。

もしかすると私が入った会社が特別だっただけで、他の外資系企業は違うのかもしれませんが…。

それまでは拒絶していた外資系の企業で働くことで見える世界が変わりました。

30代の記憶

成績優秀者研修として行ったイタリアの船上パーティーにて。伝統衣装と言われたけれど…
10年前の太ったおじさん・水の都ヴェネツィアにて

(1)大企業の社会的役割の大きさや力の違いを知った。

(2)仕事の成果は偶然ではなく必然だと知った。

(3)「甘い」を貫いた。

(4)成長して恩返し。

29歳で外資系企業に転職して30歳でクビになりました(^^;

厳密にいうと違うのですが、簡単にいうと派遣先の企業から人を替えてくれと言われたんです。

私は転職後戸惑っていました。

患者さんのための仕事をしようと考えて転職したのにこれでは逆に患者さんに迷惑をかけていないか?

そんな迷いもありました。

今までの営業職とMRの訪問方法の違いにも悩んで恐る恐る活動していたので、物事が進まないのを見兼ねて交代の判断を下されたのでしょう。

要するに派遣先製薬メーカーの管理職から見た私の活動が甘かったんです。

それは私の責任なので仕方ありません。コントラクトMR(当時の私の立場)は少なくとも半年以内に結果を出せなければ切られても仕方がないと自覚していました。

この時私は所属する会社から別な派遣先製薬メーカーを紹介されたんですが、活動への悩みもあったので、所属する会社については早々に辞めることを決めました。さらにMRを辞めてしまおうかとも考えました。

しかし、派遣先メーカーの同じエリアで一緒に仕事をした方々が、資格まで取ったのにこんなことくらいで辞めるのはもったいないと言って、別な製薬メーカーを紹介してくれたんです。

そうして新たに外資系製薬メーカーのMRとして転職が決まりました。

この会社は当時売上で世界トップ10の中に入っていた製薬企業の日本法人です。確か日本のトップメーカーがやっと世界で50位以内に入ることができた時代だったと思います。

(1)について。これは以前の会社でも感じていたことですが、大企業は必要なものには考えられないお金をつかいます。

従業員教育のために1回で数千万から億のお金をかける。

業務を効率化するための設備投資にも同様のお金をかける。

世界の上位メーカーの中には、日本だけで1年間に1000億円以上を売り上げる薬を扱うところもある。その上その他に数十種類の薬剤を販売していることもあります。

そして地域のためにもしっかりお金をつかう。

見ていれば小さな会社が太刀打ちできるレベルではないことがわかります。できることが違いすぎる。

小さな企業で働いていた時には想像もできなかった世界です。

(2)について。私も多分数千万から数億のお金をかけたシステムの中で教育を受けてきました。

正直言うと、「仕事の成績なんてコツコツと努力を積み上げれば上がってくるものだろう。こんな方法は必要ない」と考えていた時期がありました。

でもある時期から、求められる方法通りに計画を組み立てて実行すると効率良く成果が出てくることに気付いたんです。

目標を立ててそれに向けて障害を取り除くための施策を積み上げていくことの大切さがわかり始めました。計画段階でうまく行っていないものは闇雲にやっても成果にはつながらないんです。仮に成果が出たらそれは運が良かっただけ。運だけでは成功する確率は常に低いままで、再現性もありません。

仕事の成果というものは運によるのではなくより高い確率を目指した論理の組み立てによる。それは野村監督のID野球みたいなものだと感じました。

(3)について。私のMR時代、後半は特に「それが患者さんのためになることなのか」という観点から活動していました。

これについては「甘い」と考える人たちが多かったと思っています。そんなことは売れてるMRが言うことだから売れてもいないくせに偉そうなこと言うなと馬鹿にされたこともあります。できないMRの言い訳だと言われたこともある。

そんなことをしているから売上が伸びない。出世ができない。考えが甘いと。

でも思うんですが、製薬会社が患者さんの利益を第一に考えないとしたら存在する意味はどこにあるのでしょうか?ま、こんなこと言うから甘いと言われるのでしょう。

でもこれは譲れないところです。それを甘いと言われるなら私は考えの甘い人間で結構です。とことん貫いてどこまでできるかやってみよう。「間違っているかいないかは私の結果で判断できること」だ。そう思って仕事をしました。

そう、私は勝手に「こうだ」と決められるのが大嫌いな人間なんです。勝手に誰かが決めた世の中の常識を押し付けられるのが大嫌いな人間なんです。

そのことは子供の頃から一貫して変わりません。常識だと押し付けられたら、それを間違っていると証明して壊してしまいたくなる性格なんです。

それにしてもそんな人間を雇い続けてくれた会社は度量の大きい会社だったと思っています。その会社が掲げているミッションは、考えの甘い私にはピッタリで好きでした。だから今も忘れていませんし、そういう会社で働けることに誇りを持っていました。別に会社が嫌いで辞めたわけではありません。

(4)について。私は転職して数年後、以前の派遣先メーカーで担当していたエリアが新たな担当エリアになりました。昔の担当エリアを別なメーカーの担当者として担当したんです。

そして一番大事な施設で競合メーカーの一番大事な薬を採用削除して、私の担当薬を使って頂く機会がありました。そうその競合メーカーというのは・・・。

詳しくは書きません。わかりますよね。

役に立たないから担当替えてくれと言われた人間が舞い戻って、成長した姿を見せて恩返し?したんです。あの時のクビがなかったらこの瞬間もなかったでしょう。

40代の記憶

(1)チームリーダーとしてマネージャー職になりました。

(2)年収が1000万円を超えました。

(3)そして新たなチャレンジへ。

40代は現在進行形です。

(1)について。30代の(3)、それ以前もその後も、考えが甘いと言われる私なんかをサポートしてくれる方々がいるんです。それは自分の会社やパートナー会社の方々だけではなく、医療関係者の方々もです。

子供の頃を振り返ってもわかる通り、私は元々苦手分野が多い人間です。でもその苦手分野をフォローして頂いたら成果が出ないはずがありません。信じるのは己の力のみという渡邉一神教としては考えられないほどありがたいことでした。

北日本支店で協力会社の人と一緒に成功例発表をさせて頂いたこともありましたし、全国の成功例発表の中で私の成功例を発表させて頂く機会も30代の頃から2、3回ほどありました。

チームリーダーという役割は本来まだまだ私の性格で担うべき役目ではなかったでしょうが、そこを任せて頂いたのにすぐにやめてしまったことについては申し訳なく思います。

(2)について。子供の頃から考えが甘いと言われ続けていましたが、サラリーマンとしては十分な報酬ではないでしょうか。「間違っているかいないかは私の結果で判断できること」そう思って仕事を続けた到達点がこのようになりました。

(3)について。(1)と(2)の結果が出たからといってそこにしがみつく気持ちはありません。きっと私の人生の目的はそこではないので。むしろ一つの証明ができたのでまた新しい証明をしてみたい。そんな気持ちが芽生えてきました。

せっかく積み上げてきたものをいとも簡単に手放すことにもったいないねと感じる人もいるでしょう。(既にこれまで貯めたお金はほぼ使い切りました笑)

お世話になった人たちに申し訳ないと思わないのかという意見もあるかもしれません。

それについては、私はこれまで多くの方々に迷惑をかけて自分のやりたいことをやってきた人間です。わがままで甘い人間で申し訳ありませんと言うほかありません。

昨年、2つの会社で私の後輩に当たる人間がマリンビューに遊びにきました。

そして酔っ払って私にからんできて言ったんです。

「コントラクトMRから始まってメーカーのチームリーダーまで出世した先輩、私は尊敬してたんですよ。それなのにこんなところでこんなことをして、一体何をやってるんですか!」

だから私は言いました。え?今何をしてるって通過点だよ?と。

私は持って生まれた欠けたピースの多い人間です。

自分の理想とする社会で生きるために、理想とする人間になるために、自分に欠けたピースを集める旅をしてる途中です。

そんなところでしょうか。そろそろ、もう手遅れということも出てきていますが…。

これから何をしていくか。そうですね。

まだもう少し、「常識」といわれることを覆してみたいですね。他人に予想されるような人生はつまらない。

だからこれからも考えの甘い人間だと言われ続けることでしょう笑

まとめ

なんか書きながらかなり人生を振り返ってしまいました笑

書き足りない点もあるし、誤解を受けるような書き方をしてるところもあると思いますが、1万文字以上の記事を書いたのは初めてで、疲れました。修正は後で気づいたところを少しずつしますね(^^;

私に対して「経歴はすごいね。」とか「今はこんなだけど昔はすごかったんだね」などと言ってくる人がいます(^^;

私自身、振り返ってみて結構すごいなと思うことはあります。でもそれは言われていることとちょっと違う。

自分なりにすごいなと思うのは全体の振れ幅です。

数字ですぐにわかることなら、偏差値や年収。その他にも東京と北海道の田舎町暮らしとか、地元企業と世界企業の経験とか。内資と外資とか、一般従業員とマネージャーとか、民間企業と公務員系とか。

どれかひとつを経験している人はたくさんいると思いますが、この全てを経験した人はなかなかいないんじゃないでしょうか。

だから、完璧ではないですが、どの側にいる人たちの気持ちにもある程度共感できるんです。どちらかの側でずっと人生を積み重ねてきたら到底理解できないと思われるようなことにも。一方の側でずっといるとこんなことすら想像できなくなってしまうんだと感じる場面に出くわすこともある…。

私が「外の世界を知ることは大事ですね」と度々このブログで書いているのはこういう経験に基づいています。

そのどれもが中途半端という点は私らしいのですが笑

最後に冒頭の移住者さん、自分の好きなことばかりしてきた方で、その話を聞いていた別な方が、「そこまでくるともう変態の域ですね。」と言ったんです。

それに対する移住者さんの返答が「それを変態と言うなら、変態という言葉は私にとって褒め言葉でしかないですね。」でした。

私はよく「変わり者」と言われました。

小学生の頃はそのことがコンプレックスでしかなかったですが、今となっては変わり者という言葉は私にとって褒め言葉でしかありません。

ああ、やっぱり似た人を呼び込んでしまったなぁと思った瞬間でした笑

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