岩内町観光サイトには、1921年に下田喜久三博士がアスパラガスの缶詰試験製造の成功したという記載があります。
その時からもう100年以上が経つんですね。
ところでこの頃にもう一つ別な歴史上の出来事があるんです。
1920年にロンドンで開催されたボーイスカウトの第1回世界ジャンボリーに下田豊松が参加しました。
この時期の岩内町の歴史はあまり語られることがないですが、大正時代の岩内町にも歴史に名を残す方々が登場していますね。

大正時代に岩内町生まれの兄弟が共に海外へ

先日、中学校でお話しをさせて頂く機会がありました。
岩内町が日本のアスパラガス発祥の地だったということは、皆さんよく知っている様子でしたが、下田喜久三という名前については思い出せない生徒さんもいたようです。
そして、この下田喜久三博士が女子教育に力を入れていて、学校も設立していたということは、あまり知られていないようでした。明治生まれの方々なので、大人でも知らない人が多いというのが現実ですね。

下田博士は視察のために海外に行っています。
その頃使った旅行ケースは、今も岩内町郷土館に保管されていますよ。

下田喜久三ケース
岩内町郷土館にて撮影
関連記事

同時期に、下田喜久三の兄の下田豊松もヨーロッパに行っています。1920年(大正9年)のこと。
場所はイギリスのロンドンです。
ロンドンで開催された、ボーイスカウトのオリンピックとも例えられる、第1回国際ジャンボリーに参加するために行きました。
しかも、このとき日本で参加したのは3人だけ。
ボーイスカウトの創始者ベーデン・パウエルとも接見し、日本のチーフスカウト(総長)としての扱いを受けていたそうです。(無名の初代チーフ・スカウト下田豊松物語 小町國市著 1997年 クニ・スカウティング・ライブラリー発行)

すごい兄弟がいたものですね。
この時代に日本を代表するようなパイオニア精神を持った兄弟が岩内町にはいたのです。

歴史が記録されていない知られていない

神仙沼下田豊松

上の案内版は、共和町の神仙沼に設置されているものです。
下田豊松が日本ボーイスカウトのの生みの親であり、神仙沼を発見し、命名した人物として刻まれています。
神仙沼を訪れてこの案内版を発見し、この歴史を初めて知ったという人も多いことでしょう。

先日偶然、ラベンダーの日本で最初の栽培地の1つが共和町であることを知りました。
共和町に石碑のようなものはないと思いますが、町民の方が教えてくださいました。
ちょっとインターネットで調べてみたところ、かみふらの十勝岳観光協会の公式サイトの「ラベンダーの歴史とあゆみ」というページで、

札幌市郊外南の沢と岩内郡発足村(共和町)で栽培、蒸留が始まります。

かみふらの十勝岳観光協会公式サイト 上富良野Navi

という記載がありました。戦前にこの地で栽培が始まっていたようです。

ラベンダー=富良野というイメージがありますし、日本のどこで始まったかということは考えたこともなかったですが、歴史の記載を調べるとこういうことがあるようです。

なぜなにも残っていないように感じるのでしょう?
なぜ知られていないのでしょう?

なぜ下田喜久三はアスパラガスの栽培を考えたのでしょう?なぜ女子学校設立を考えたのでしょう?
なぜ下田豊松は日本でのボーイスカウト活動普及に率先して取り組んだのでしょう?

事実を調べると「なぜ?なぜ?なぜ?」ということが出てきて、それが今後なにかを始めるため、あるいは失敗を防ぐためへの示唆ともなるので重要です。
それなのに、残されていない、広まっていないことがあるのが残念です。
ちなみに、残された歴史=事実とはかぎりません。

まとめ

歴史に残る情報を調べてみると新たな発見がありますね。
岩内町は北海道の積丹半島にある小さな田舎町というイメージを持っている人もいるでしょう。
岩内町移住者の方が岩内町のお店「cafe & bar isalibi」さんを見て「岩内町らしくない」という反応をしたということを別な記事で書いたことがありました。

関連記事

でもですね、
やっぱり岩内町は革新的なことに取り組んできた人々を生み出した町なんですよ。
それも町の成り立ちの歴史からそうなるべくしてなっているはず。偶然ではありません。

今望んだ結果が出ているならそれはなぜ?
今望んだ結果になっていないならそれはなぜ?
なぜ?を考えていれば次にやるべきことが見えてくる。
歴史ってそういうものだと思います。

すっかりまとまりのない文書になってしまいましたが、
「岩内町の魅力」について中学校でお話しするにあたって、あらためて岩内町の歴史の一端を調べてみました笑

関連記事