北海道の和人の歴史を学ぶと、近くは渡島南部に本拠を構えていた松前藩の歴史と関連していることがわかります。
幕末期の岩内について考えてみました。
松前藩の場所請負制と岩内
一般的に藩主は家臣に対して米の石高に応じた知行地を今でいう給料として与えていましたよね。
でも当時の北海道(蝦夷地)では米は取れません。
松前藩では知行地のかわりに「場所」の交易権を家臣に与えていたのです。
(「場所」は漁場やアイヌの人たちとの交易の場です。)
後にこの方法が少し変化します。
簡単に言ってしまえば家臣たちがこの「場所」を自分で管理できなくて、松前に進出してきた近江商人などに交易権を代行させたのです。
代行したのが場所請負人、そこから家臣は運上金を得ていました。運上金は税金のようなものですね。
松前藩ではこのような場所請負制度があったということが前提になります。
岩内町の歴史の中では、1751年に近江商人恵美須屋(岡田)与三右衛門が岩内古宇両場所請負になり、この時を岩内の開基としていることが岩内町のホームページに掲載されています。
明治維新が1868年頃(「北海道」命名は1869年)ですが岩内町の開基はその100年以上前なのです。
三度にわたる松前藩からの領地召し上げと岩内
江戸時代後期、松前藩は幕府に領地を召し上げられています。
一度目は1799年に東蝦夷を、その後1802年に西蝦夷地を召し上げ。
1821年に復帰するも1855年には乙部村以北と木古内村以東を召し上げられて渡島半島南西部のみが領地になっているようです。
この歴史については松前町のホームページや松前藩ウィキペディアなどネット情報でも確認できます。
岩内はどうなったのか?
蝦夷地が幕府に召し上げられてからは、ロシアの南下政策に対抗して東北の藩が警固にあたっています。
岩内も東北の藩が警固していました。
↓私が確認していた記載を確認できなくなってしまったため訂正削除します。
1855年の召し上げの後は庄内藩が警固していたようです。
庄内藩は今の山形県鶴岡市を本拠とした藩で、統治したのは酒井氏。
酒井氏は徳川四天王として有名な酒井忠次から続く徳川家の有力譜代大名です。
藩主、家臣、領民の結束がとても強いことで有名で、幕府による転封が行えないほどだったそうです。
このような藩が岩内を警固していた時代があったんですね。
そのほかの情報として、1835年から1837年にかけて天保の大飢饉により移住者が一気に増えています。
1856年頃に北海道命名で有名な松浦武四郎が岩内町の現在の朝日温泉あたりに来ていたという情報もあります。
まとめ
岩内町の成り立ちやどんな人たちが関わり、どんな文化が入ってきたかを知ることで、今ある物事(結果)の背景(原因)を探れないだろうかと思って調べてみました。
この情報だけで考えると、岩内町は松前藩の影響は少ない地域だったのではないかということ。
そして天保の大飢饉の頃に様々な地域の人が一気に移住してきたことによって、過去の岩内の歴史文化と様々な地域の文化が融合した独特の文化を持つ土地になったのではないかということ。
さらに、様々な地域の人たちの集まりなので意見が合わないことが多いのではないかということと、逆に何か危機的状況があったときには仲間を助けなければいけないという思いが強いのではないかということを想像しました。
結果には必ず原因があるものです。
岩内町が今とても良い状況にあるならその原因は過去にある。
岩内町が望まない方向に進んだならその原因も過去にある。
どちらの場合も偶然ではなく必然!
原因を変えなければ結果は変わりません、と思ってもっと勉強したいと思います(^^)
岩内町に北前船が寄港していたという情報もあるのですが、
この時代の情報はまだまだ勉強不足。
もう少し調べてみたいと思います。
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